
日本の歴史
古代
はるか昔、日本はユーラシア大陸の一部でした。 ところがおよそ2000万年前に大陸の縁が東西に引き裂かれ、日本列島の地殻は大陸から離れました。 やがてその裂け目は海に達し、中には海水が入り、そして日本列島ができました。
この時期に日本列島では木の実などをたくわえたり、食料を煮たりするために土器を使ったりしていました。この土器は厚手で黒褐 色の土器には縄目のような模様が描かれていたため、「縄文土器」と呼ばれ、縄文土器が作られ・使われていた時代を縄文時代(前14000年頃 – 前10世紀)と言います。儀礼や呪術で使用された道具のひとつである土偶(どぐう)の存在も有名です。

紀元前500年頃になると九州で稲作が始まりました。これが縄文時代の末期の頃だと言われています。そして時代は弥生時代に入っていきます。紀元前3世紀頃のできごとです。
縄文時代は「採集経済の時代」であったのに対して、弥生時代は「水稲農耕を主とした生産経済の時代」です。
稲作のために人々は水田を作り、みんなで協力し合います。「村」が作られます。稲作によって食料が豊かになると人口が増え、「村」同士の交流や、水や収穫物をめぐって争いごとも起こりはじめます。こうして「村」同士がまとまり、やがて小さな「国」ができ、稲作のような共同作業を指揮する指導者が現れるようになりました。
中国の『三国志』における「魏志倭人伝」には、3世紀ごろに日本の「邪馬台国」を治めた女王「卑弥呼」のことが書かれています。当時の日本は「倭国(わこく)」といい、数十の国々から成っていました。各地で争いが起こり、大きく乱れていたといいます。それを卑弥呼がまじないの力を使ってまとめ、統治したと言われています。
邪馬台国がどこにあったのか、3つの代表的な説があるようです。大阪などの「近畿地方内の説」、「九州説」、「出雲説」。「近畿地方」説によれば、邪馬台国が発展して豪族による巨大な勢力が政権を握る大和朝廷の時代になったと考えられています。
古墳と呼ばれる大きな墓がつくられた時代だったため、6世紀末までを古墳時代と呼びます。古墳の多くは表面に石がしきつめられ、人や家、馬の形をしたはにわが置かれました。
飛鳥時代
6世紀の半ば、中国、朝鮮半島を経て、仏教が日本に伝えられました。飛鳥時代の始まりです。
仏教推進派とそうではない豪族たちとの間で戦いが起こり、最終的に仏教推進派が勝ち、仏教を信じることが国の方針となっていきます。また、その当時の天皇であった推古天皇(初の女性天皇)を助けて政治を行っていた摂政の聖徳太子は、新しい国のしくみを整えることに取り組みました。
この時代は、今後の日本の成り立ちや政治のあり方に大きな影響を与えた時代でした。
また、仏教と共に漢字も日本に伝わり、更に中国(当時は「隋」の時代)への留学生の派遣をとおして様々な技術や学問も日本に伝わり、それらの知識は、のちに、日本が新しい国づくりをする手本になりました。

1984年まで1万円札には聖徳太子が描かれていました。
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奈良時代
皇位をめぐった争いが起こったこともあり、710年に現在の奈良県奈良市に都が移されました。これが平城京です。
奈良時代の始まりです。中国(「隋」から「唐」の時代に代わっています)の都、長安にならって造られたこの都には、東西南北に碁盤の目のように規則正しく道が敷かれました。
またこの時代は国際色豊かな「天平文化」の時代としても知られています。
遣唐使が派遣されていた唐は最盛期を迎え、唐が支配している領土は広く、シルクロードを通じて様々な国と貿易もしていたため、世界の色々な文化の影響が長安に集まっていました。
それが遣唐使たちを通して日本にもたらされたのです。シルクロードを経て、カザフスタンと日本がとても近かった時代であると言えます。
ただ、奈良時代は政治の実権をめぐって争いごとがたくさんあったり、伝染病がはやったり、災害が起こったりした時代でもありましたので、当時の聖武天皇は、次々と起こる災いに悩み、その救いを仏教に求めました。
そのため奈良時代は、仏教色の強い文化であるという特徴を持っていました。その象徴的な存在となるのが、聖武天皇の命令により奈良の東大寺に建立された大きな仏像です。
高さ約15m、顔の幅約3.2m、手の大きさ約2.5mの大仏像は743年に建立が開始され、9年後に完成しました。
平安時代
しかし仏教の勢力が強くなりすぎると、天皇中心の政治がやりにくくなります。仏教勢力が政治に口を出してきたからです。
そこで、桓武天皇が794年に奈良から京都に都を移しました。これが平安京で、390年間続いた平安時代が始まります。
894年に遣唐使の制度が廃止されると、国内では「国風文化」と呼ばれる独自の文化が発展します。
ひらがなができて広がっていったのもこの時期です。
平安時代中期ぐらいになると、娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子どもが天皇になると、自身は天皇の祖父となって政治の実権を握る貴族たちが現れます。彼らは大きな権力を握ることになりました。また、平安末期には天皇の位を後継者に譲った元天皇の上皇や法皇が、幼い天皇の代わりに政治を行う院政も盛んになります。
またこの時代は、武士が本格的に歴史の表舞台に出てきた時代でもあります。その代表的な武士が「源氏」と「平氏」です。
もともとは皇族や貴族を守っていた人たちですが、やがて彼らが権力を握り、貴族が行ったのと同じ方法で天皇の親戚となって絶大な権力を握ることになるのです。その代表的な存在が平清盛です。清盛は武士でありながら初めて「太政大臣(だいじょうだいじん)」になります。これは平安時代で最高位の役職です。
鎌倉時代
しかし、上皇を中心に清盛が支配する世の中に不満を持つ人たちが、清盛の宿敵である源頼朝を担ぎ上げ、清盛が率いる平氏一族と戦わせます。こうして、栄華を極めた平氏は戦いに敗れて歴史の表舞台から消えることになります。
平氏の代わりに台頭した源頼朝は1192年に後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられました。こうして鎌倉時代が始まります。
将軍となった頼朝は幕府を京都ではなく、関東の鎌倉に移し、武士のもとに天下を統一していきます。
天皇や貴族が残る京都から遠く離れた鎌倉に政治の中心を移したのは、武士たちが平氏のように贅沢な貴族文化に染まり貴族化するのを防ぐためだと言われています。
こうして武士たちが征夷大将軍の元で組織化されていきました。
鎌倉時代は1333年まで続きます。
この鎌倉時代ですが、1274年と1281年の2回に渡りチンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが率いる元という国が大軍を引き連れ日本を襲います。元というのは中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国で、中国本土とモンゴル高原を中心に広がっていました。
日本にとってはまさに国家の危機となったのですが、海から吹いた強風(神風)に助けられ、2回とも鎌倉幕府は危機的状況を乗り切りました。
余談になりますが、『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロが、ローマ教皇であるグレゴリウス10世からフビライ・ハンへのメッセージを携えて中国へと向かったのは、1271年のことです。若いマルコ・ポーロはフビライ・ハンに大変気に入られ、個人的な特使としての権限を与えられました。そして17年間、彼はフビライ・ハンに仕えました。
マルコ・ポーロが日本を「黄金の国ジパング」と形容し、黄金に溢れる大変豊かな国だとしたことが元寇に繋がったという説もありますが、これは事実ではないようです。
南北朝時代・室町時代
元には勝ったものの、勝ったからといって土地や褒美がもらえるわけではなく、疲弊した武士たちの間では幕府に対する不満が高まっていきます。それをみて武士から権力を取り戻そうとしていた後醍醐天皇が、元々は幕府側についていた一部の武士たちを味方につけて鎌倉幕府を倒します。後醍醐天皇は天皇中心の政治に戻し、平安時代の頃のような体制を作ろうとしたのです。
ところがそれに対して武士たちが反発をします。足利尊氏がこうした武士たちをまとめて武家政権を目指して兵を挙げ,別の天皇を立てて京都に幕府を開きました。
一方の後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ,そこで朝廷を続けました。これがいわゆる南北朝時代と呼ばれる時代です。
日本に天皇が2人いた時代、朝廷が京都と吉野の2か所に存在した南北朝の時代は、1336年から1392年まで約56年間続きました。
室町時代
そのような中、足利尊氏が光厳天皇から1338年に征夷大将軍に任じられます。こうして室町幕府が始まるのですが、この時代を室町時代と言います。重要なのは、室町時代が南北朝時代と並行して存在した、ということです。
南北朝時代が終わったのは1392年、一方室町幕府の征夷大将軍は、既に3代目の将軍である足利義満の代になっていました。
多くの武士が幕府のある京都に住むようになったため、伝統的な貴族文化と、鎌倉時代の武家社会で誕生した武士の文化の融合が見られるようになったことが、室町時代の特徴です。また対外的には中国(当時は明の時代でした)との貿易交流も盛んでした。
このように、様々な文化が融合したことにより、室町時代は非常に文化が栄えた時代となりました。
現在、日本の伝統文化の代表とされる能・茶の湯・生花などの多くはこの時代に基礎が確立されています。また、世界文化遺産に登録されている有名な金閣寺や、銀閣寺も、室町時代に将軍の別荘からはじまった禅寺です。
文化的にはいくつもの大輪の華を咲かせた室町幕府ですが、経済的にも軍事的にもあまり強くなかったため、安定した時代ではありませんでした。
戦国時代
将軍の後継者争いから1467年に応仁の乱が起きます。そしてこの戦火が全国の大名たちを巻き込み、日本は約100年間に渡って続く戦国時代に突入します。
戦国時代というのは、戦国大名と呼ばれる武将たちが実力で領地を支配していた時代です。
全国に150人~小さなところも入れると300人もいる大名たちが領土拡大を目指して戦っていたと言われます。ただし、その間も正式には「室町時代」は続いていました。
安土桃山時代
1336年から続いた室町時代が正式に滅ぶのは、1573年のことです。全国の戦国大名をまとめ、室町時代を倒し、天下を取る一歩手前まで行ったのは、織田信長という一人の戦国大名でした。
信長は、1543年にポルトガルから伝わった鉄砲を上手に使って戦国最強の騎馬軍を持つ強敵武田軍を破り、天下統一に王手をかけます。しかしその一歩手前で夢を断たれます。
自由な発想を持ち、日本に新しい風を吹かせた信長ですが、部下の裏切りに合い、志半ばで倒されてしまったのです。
その後、信長が可愛がっていた別の部下である豊臣秀吉が、謀反をおこした明智光秀を倒し、天下を取ります。
豊臣秀吉は農民から武士になり、最終的には天下をとるまでに至ったので、戦国時代を象徴する「下剋上の世」の代表格的存在だと言われています。
農民の子であった秀吉が大出世していく裏には並みならぬ苦労があったことは容易に想像できます。主君の信長に取り入るために色々と知恵を絞った秀吉ですが、中でも有名なのは「草履」にまつわるエピソードです。ある雪の夜、織田信長ははいた草履が温かかったことに驚きました。雪の日なのに草履が温かかった理由は、秀吉が草履をずっと自分の懐に入れていて、いつでも信長が履きたいといった時に温かい草履を差し出せるようにしていたからです。信長に目をかけられた秀吉は、戦場でも大役を任せられるようになり、どんどん出世していき、最終的には天下を取るまでになったのです。
信長と秀吉が活躍したこの時代を安土桃山時代と言います。安土桃山時代は信長が京都に入った1568年から1600年の関ケ原の戦いまでの約30年間を指します。
安土桃山時代は、海外から多くの文化が入り、権力を持った大名たちは豪華な生活を送っていました。
安土城や大坂城のふすまや屏風にはきらびやかな絵が描かれ、また諸大名の間では茶道が大流行します。
世界的に有名な日本の茶道の師である千利休は秀吉に仕えていました。また、この時代はポルトガルやスペイン等との貿易によりカステラや時計、洋服などヨーロッパ文化が次々に入り、「南蛮文化」として芸術や生活、風俗などにも変化が現れました。
ちなみに「弥助」という黒人武士が信長に仕え、とてもかわいがられていたことが知られています。
尚、1543年にポルトガルから伝わったのは、鉄砲だけではありませんでした。キリスト教も一緒に伝わり、それと共にフランシスコ・ザビエルなどの宣教師も日本にやってくるようになります。

キューバの首都ハバナ市にある教会Iglesia Del Sagrado Corazon de Jesus y San Ignacio de Loyolaの中のステンドグラスには着物姿の女性や明らかに武士と見られる人物像が描かれています。キューバは宣教師たちが日本などのアジアの国々に布教しにいくための中継地点となっていました。この教会が命名されている聖イグナシオ・デ・ロヤラはイエズス会の創立者で、日本に布教にきたフランシスコ・ザビエルは、ロヨラの盟友でした。
日本国内で天下を取った豊臣秀吉ですが、秀吉の野望はそこでは終わりませんでした。秀吉は次に中国(当時は明の時代でした)を征服することをくわだて,朝鮮に対して,日本に服従し,日本軍を明まで案内し,ともに明と戦うよう申し入れました。
しかし朝鮮はこれを拒否します。そこで1592年に秀吉は朝鮮に出兵しました。しかし、朝鮮の水軍と明の援軍による反撃にあったため,休戦して朝鮮から引きあげました。
その後,明と講和を結ぼうとしましたがまとまらなかったため,秀吉は1597年にふたたび大軍を朝鮮に送りましたが、この時も苦戦します。そうした中、1598年に秀吉が病死し、日本軍は引きあげます。2度にわたるこの戦いは、多くの戦費と兵力を費やし,大名や民衆の負担も大きく,豊臣政権が没落する大きな原因のひとつとなりました。
江戸時代
豊臣秀吉が死亡すると再び国内は戦火に包まれます。しかし徳川家康が1600年の関ケ原の戦いで勝ってこれを押さえ、天下を取ります。1603年、家康は征夷大将軍となり、今の東京に「江戸幕府」を開きます。江戸時代は約260年間、1867年まで続きました。
少し話が横道にそれますが、日本ではよく信長、秀吉、家康の3人の戦国武将の性格を比較して、その比較の観点から会社の経営の話しをしたりします。その時に使われるのが次の例えです。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 織田信長」
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス 豊臣秀吉」
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 徳川家康」
新しく会社を設立して事業を始めるならどのタイプの社長がいいか。起動に乗った会社を更に大きくするには、どのタイプの社長がいいか。
ちなみに現代の日本の最も有名な経営者の一人であった松下幸之助は、
「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」
と言ったそうです。松下幸之助はパナソニックグループを一代で創った人で、「経営の神様」と呼ばれた人でした。
さて、江戸時代に話しを戻しましょう。
江戸時代には幾つかの顕著な特徴があります。
まず、地方で権力を持つ大名が反乱を起こさないように徹底的に幕府側によってコントロールされていたことです。
江戸幕府は様々な制度を作り、大名の経済力・支配力を弱めて幕府の権力を強めていきます。
また庶民は士農工商という身分制度により、武士・農民・職人・商人という職業ごとに身分を分けられ、身分を固定化されました。
制度による支配だけでなく、儒教の教えを幕府の思想・教育の基本とし、江戸幕府が支配・管理しやすい思想を広めていったことも特徴のひとつです。
このような封建的かつ中央集権的な政策が成功し、江戸幕府の権力が絶対的になったことで、これまで続いた戦国時代は平和な時代へと移り変わりました。
また、海外との貿易が活発になるとキリスト教の布教も進みましたが、キリスト教の教えは江戸時代の身分制度に反していました。身分制度が崩れると江戸幕府の統制が難しくなります。そのため将軍はキリスト教を禁止ししました。そして、キリスト教の布教を防ぐために海外との貿易・日本人の渡航を制限する「鎖国」が始まります。
この徹底した「鎖国」政策は、文化にも大きな影響を与えます。外国との交流が制限されたおかげで日本固有の文化が豊かに花開いたのです。歌舞伎、浮世絵、人形浄瑠璃など、今日日本が世界に誇る多くの日本固有の文化がこの時代に確立され、栄えていきます。
ところが、江戸時代末期にイギリスやロシアやアメリカなどが次々に日本周辺に出没し始め、やがてこれらの国々との貿易が始まりました。
西洋から新しい技術や革新的な思想が入り、鎖国制度が揺らぎます。1853年に開国を迫る大統領の国書を携えたペリーの軍艦が浦賀にやってきたことにより、日本はついに開国を決心し、翌年の1854年に日米和親条約を結び、下田と函館を開港しました。
アメリカはさらに横浜、長崎、新潟、神戸の5港を開港させ、幕府に自由貿易を認めさせました。また幕府は同じ条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結びます。
しかし、この条約は治外法権を認める、関税自主権がない、という日本に不利な内容を含んだ不平等条約でした。
自由貿易によって経済は大きく変わり、金銀の交換比率がちがっていたことで、大量の金貨や銀貨が流出しました。
幕府が朝廷の許可を得ないまま条約を結んだことは、武士や民衆に大きな影響を与え、幕府に反対する運動がさかんになります。
こうした中、世の中の変化を知った15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、政権を朝廷に返すことを決心します。
1867年、将軍は政権を朝廷に返し、新政府軍によって王政復古の大号令が発せられることになりました。
こうして鎌倉時代から江戸時代まで680年近く続いた武士による支配は終わり、日本は新しい歴史のページに入ります。
ただ、将軍が政権を朝廷に返したからといって、一夜にして世の中が変わったわけではありません。こうした動きに不満を持った旧幕府の軍と新政府軍との間で戦いが起こります。新しいものが生まれる前の苦しみというのでしょうか。それとも去り行く者の最後の抵抗とでもいうのでしょうか。
戦いの中、新政府軍は、江戸城の明けわたしを行ない、旧幕府軍を北海道の函館まで追いつめて降伏させます。
これにより260年あまり続いた江戸幕府が、そしてそれと同時に680年続いた武家社会が幕を下ろしたのです。