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Image by Tom Zhang

日本の文化

日本の映画

サイレント映画の時代

世界に誇るかつてのカメラ&写真フィルムメーカーであるコニカ株式会社の原型の小西写真店が1897年10月に、イギリスから撮影機を輸入しました。この機械は輸入販売する為に仕入れたものでしたが、使用方法が不明だったため、大々的に仕入れの事実を発表することができませんでした。そこで、小西写真展の当時20歳だった店員の浅野四郎が試験撮影を行うように命じられました。

浅野四郎は試行錯誤の末、撮影・現像に成功し、12月31日に日本橋の光景を写した『日本橋の鉄道馬車』を完成させました。これが事実上、日本人が撮った最初の映画となりました。浅野四郎は『日本橋の鉄道馬車』の他にもいくつか短編映画を制作しています。

 

現存する最も古い日本映画としては1899年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』が挙げられます。これは鬼退治を描いた能の演目『紅葉狩』を、東京の歌舞伎座で再演した際に記録したドキュメンタリ―映像です。映像はこちらのページでご覧いただけます。

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1903年には貿易会社で日本最古の映画会社のひとつである吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門館「電気館」を設置しました。

 

1908年に発表された『本能寺合戦』は最初の本格的な劇映画で、それを撮影した牧野省三は日本最初の映画監督として名を残しています。

 

サイレント映画時代の、いわゆる初期の映画上映の時間は、時として数時間にも及びました。それというのも映像そのものは20分程度のものであっても、フィルムの交換に時間がかかったからです。フィルムを交換するたびに、スクリーンを水で冷やさなければならず、そのため活動写真(映画)の上映時間は数時間にも及んだと言います。

 

1932年まで続いた無声映画時代、その上映にあたり、「活動弁士=弁士」(べんし)と呼ばれる映像の展開内容を解説する説明者が存在しました。欧米では映画の中に挿入されるセリフや背景解説のショットと生伴奏の音楽によって上映されていましたが、日本では人形浄瑠璃をはじめとする伝統芸能の世界や演劇で既に優れたナレーション文化が確立されておりました。そのため、日本では、映画作品の内容にあわせて台本を書き、上映中に進行にあわせてそれを口演する「弁士」という特殊な職業と文化が出現しました。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となったようです。弁士は映像内容の進行を説明するだけでなく、外国映画に登場する日常生活の概念や要素、ジェスチャーの内容や、顔の表情に至るまで日本の観客に説明するといった役割まで担ったと言います。更には表現方法も19世紀後半、20世紀初頭の日本と西欧とでは大きく異なっていたため、話しが混乱しないように、弁士は声色を使い分け、声で状況を演じながら観客の理解を助ける独特の話法を編み出しました。そのため弁士の役割は、ある種の「役者的なもの」にまで発展していったと言います。
以上のことから、サイレント映画(無声映画)とは声の無い映像のみの映画を指す用語ですが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言えるようです。弁士は舞台上でななめに構え、奥のスクリーンと観客席を交互に見ながら語りました。このため当時の映画館には必ず舞台がありました。

 

ちなみにこの「弁士」という職業は、映画の技術が発達して、音声が入るトーキーが普及するようになったら不要になりましたが、多くの弁士が優れた話術を活かして司会者、ラジオ朗読者などに転身したと言われています。しかし中には現在も「弁士」として活動をしている人もおります。

映画
カザフスタン
現代の活動写真弁士 大森くみこさん 
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記録的な大ヒット映画『Shall we ダンス?』を撮った周防正行監督も2019年に映画『カツベン』で「弁士」に焦点を当てた作品を制作しています。

1900年、最初のニュース映画が登場します。

1903年、東京に初の映画館が開館します。

1908年(明治41年)、初の映画スタジオが開設されました。


【以下 続く】

こちらは日本語版・ロシア語版Wikipediaの『日本映画』についての記事を参考にさせていただいています。
 

初期の日本映画は演劇の流れを汲んで発展してきました。演技の仕方、衣装、風景は演劇的で、伝統的な歌舞伎のように、女性の役はすべて男性が演じました。映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからです。井上正夫が1917年に製作した『大尉の娘』ではクローズアップや移動技法、カットバックといった技法が導入されています。
しかしやがて外国映画の影響があり、徐々に演劇的要素が排除されていくようになります。
特に言及に値するのは第1次世界大戦後に起きた「純映画劇運動」という映画界の革新運動です。帰山教正、谷崎潤一郎、小山内薫、田中栄三らがこれを提唱しました。欧米映画を模範としつつ、女優の起用(女形の廃止)、字幕の使用(活動弁士の廃止)、自然な演技、物語内容の現代化、映画的技法の重視、演技・演出の写実化等を唱えて、歌舞伎や新派劇の影響を強く受けていたそれまでの日本映画(活動写真)の改新を図りました。

 

1923年に発生した関東大震災の影響で現代劇映画を制作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が生じたことにより、この「純映画劇運動」自体は終焉しましたが、これにより日本映画界で女優の起用が一般化し、演出技術も発展しました。こうして、それまでの「活動写真」の枠を超えた、本格的な日本映画が製作されるようになったのです。
本格的な日本映画を生んだ監督たちとしては、日本映画から演劇的な要素を排除し始めた牧野省三、それに続いた若手監督たちの二川文太郎、ヘンリー・小谷、牛原虚彦、島津保次郎、伊藤大輔、五所平之助、そして小津安二郎などが挙げられます。

トーキー映画の登場

映像に対し、音声も並行して加えようとする試みは映画の輸入とほぼ同時に行われ、様々な実験が試みられましたが、なかなか技術的な問題が解決せず、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式がしばらくの間一般的となります。
そうした中1931年、完全なトーキー映画として五所平之助の『マダムと女房』が公開されます。

カザフスタン
五所平之助『マダムと女房』 
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小津安二郎のようにトーキーに懐疑的な目を向ける者もいましたが、資本力のある大きな会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り、1935年には完全に移行を成し遂げますが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けることとなります。こうした流れの中で小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていったのです。
また、ハリウッド式のプロデュースシステムが日本の中で定着したのもこの頃です。

第二次戦争下の日本映画界

1939年に第二次世界大戦が始まると、その影響は色々な形で日本の映画産業界にも及ぶものとなります。
1939年に成立した映画法により、製作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、製作される作品についても、脚本段階で検閲が入るようになりました。戦前数多く存在した独立スタジオは、閉鎖や合併を繰り返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなりました。
1941年には日本は映画の製作数が当時アメリカに次ぐ世界第2位であったと言われ、年間500本を超える映画を製作していたとされていますが、終戦の年である1945年にはその製作数は僅か26本まで落ち込んだと言われています。
一方、日本が支配していた台湾、朝鮮、満州、インドネシアなどでは、映画は獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施されました。

GHQ占領下時代の日本映画産業界

1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本間接統治が開始されました。そして、日本で製作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなります。この管理体制は1952年まで続きました。作品は企画と脚本段階で英語に翻訳され、CIEで許可されたもののみ製作がなされました。こうした検閲処置は過去の映画作品に遡っても実施されました。
CIEによって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となりました。また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作され、一方、そのガイドラインにそぐわない超国家主義的・軍国主義的・封建主義的思想の映画は上映禁止・焼却の処置を受けています。

日本映画の黄金時代

しかし、1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となります。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになり、日本映画産業は一挙に活気を取り戻し、日本映画産業はその黄金時代を迎えます。1950年代末には、日本は世界一の映画生産国となり、1958年には504本の映画が公開され、映画館への総入場者数は約12億人に達したと言われます。この映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引しました。

映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『七人の侍』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリ並びに第27回アカデミー賞で名誉賞と衣裳デザイン賞を受賞するなど、日本映画の存在は広く世界の人々に知られるようになります。

こちらは日本語版・ロシア語版Wikipediaの『日本映画』についての記事を参考にさせていただいています。

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