top of page
カザフスタン

​カザフスタンの文化

映画
映画

カザフスタンにおける映画の誕生

カザフスタンでの最初の映画上映は、1910年6月22日にヴェルニー市(後のアルマ・アタ市)で行われました。
また同年、コクチェタフ市では最初の夏季用映画館が誕生します。

 

そして翌1911年、ヴェルニー市で「エレクトロテアトルXX世紀」という名の、初の常設映画館が誕生しました。
しかし、これらは純粋な商業ベースのプロジェクトであったため、映画芸術の普及にも、本格的な映画産業の創出にもつながりませんでした。

 

1930年代には、アルマ・アタ市で”Alma-Ata”、”Alatau”、”Udarnik”、カラガンダ市で”Kazakhstan”, “Shakhter”、
そしてキジル・オルダ市では”Aman-Geldy”といった、大きな映画館が建設されました。

カザフ映画制作の第一歩

1925年、キジル・オルダ市で第5回共和国代表大会の記録撮影が行われた時に踏み出されたと言えます。
同年、レニングラードの映画スタジオ「ソフキノ」によって制作された、『カザフ自治ソビエト社会主義共和国の5周年記念』«Пятая годовщина КазАССР»と題するカザフスタンに関する初のドキュメンタリー映画が公開されました。


1929年 アルマ・アタ市において最初の映画スタジオが作られることになります。
このスタジオは、全ソ連企業合同体「ボストークキノ」(1934~1935年は「ボストーク・フィルム」と称されます)の制作部門にあたりました。
ラボ室、編集スタジオ、アニメーションスタジオそして字幕制作スタジオといった設備が建設されました。
そしてここから単独で『最新ニュース』«Последние известия»という総題をもつ数本のニュース映像が制作されています。

また、カザフ人の生活習慣の変化、新都アルマ・アタ市について、遊牧民の教養と文化の啓蒙活動を行っていた移動式「赤いユルト」の活動、アルマ・アタ市への最初の列車の到着の様子、学校教育についての短編記録映画が制作されました。

中でも最も人気があったのは、ヴィクトル・チューリン監督が撮影したドキュメンタリー映画『トゥルクシブ~鉄の道~』  «Турксиб»です。

1929年10月15日公開『トルキブ(鋼鉄の道)』トルキスタン=シベリア間の鉄道の建設と、その鉄道建設がザフスタン南東部とキルギス(クルグズスタン)北部にまたがるセミレチエ地方の発展に貢献した役割を描いたソ連の無声記録映画です。

砂に敷かれたレールの上を走る列車を見た砂漠の民の驚嘆と、建設に携わる人々の熱意を伝えるこの作品は、1920年代末のソ連ドキュメンタリー映画における最高峰のひとつとなりました。

この映画は「20世紀の最も優れたドキュメンタリー映画50本」のリストの中に含まれており、ハーバード大学が推薦する「映画史にとって最も重要な映画」のリストにも含まれています。

Harvard University's Suggested Film Viewing List: Non-Fiction Films (2012) ➡Go to the site


興味のある方はYouTubeで鑑賞することが可能です。

英語版(英語字幕付き)➡Go to the site

ロシア語版(ロシア語字幕付き)➡Go to the site 


全ソ連企業合同体「ボストークキノ」のアルマ・アタ支部は、中央から独立した本格的な自治的な映画スタジオを作ることを計画していましたが、1931年にはこの支部自体が閉鎖されてしまうことになります。
その理由としては、技術的な基盤が弱いことと、脚本家がいなかったことが挙げられます。

そうした紆余曲折があったにも関わらず、1934年にはアルマ・アタに新しく映画スタジオが設立されました。
そして定期的に映像ジャーナル『ソビエトのカザフスタン』«Советский Казахстан»やドキュメンタリー映画が制作公開されるようになります。
更にモスクワではソ連映画のカザフ語への吹き替えが開始されました。

カザフスタン関連の映画の黎明期

1928年「ソフキノ」においてドミトリー・フルマノフ原作の同名の小説が題材となった『叛乱』«Мятеж»(セミョーン・ティモシェンコ監督)が映画化されました。➡Go to the site これはカザフスタンを素材とした最初の長編文芸映画となりました。

 

1935年 今度は「モスフィルム」でI.P.シューホフ原作の長編小説『憎しみ』をベースにした長編文芸映画『敵の小道』«Вражьи тропы»(イワン・プラヴォフ監督)が制作されました。➡Go to the site

 

更に全ソ連企業合同体「ボストークキノ」は1931年に『黄麻』«Джут» 1932年に『カラタウの秘密』«Тайна Каратау»という長編映画を制作しています。

1938年「レンフィルム」で撮影された映画『アマンゲルディ』«Амангельды»は、カザフスタン初の長編映画と言われています。
脚本はB・マイリンとG・ムスレポフがV・イワノフと共に担当しました。

この映画がカザフの作家による最初の文芸映画作品となります。➡Go to the site

 

モイセイ・レヴィンが監督をし、E.ウムルザコフが主演を務めるこの映画は、カザフ・ソビエト社会主義共和国で大きな人気を博し、制作陣はカザフ・ソビエト社会主義共和国最高会議から栄誉賞を授与されました。


映画『アマンゲルディ』は中央アジア動乱(1916年)とカザフスタンにおけるソビエト権力闘争の指導者の一人であるアマンゲルディ・イマーノフ(1873-1919)に捧げられたものとなっています。皇帝軍の懲罰隊に対して最初に反旗を翻した一匹狼的反徒アマンゲルディは1919年、軍事委員に任命されますが、最終的に反革命軍に殺されます。その様子が映画の中でドラマチックに生き生きと描かれています。

レヴィン監督は続いて更に1940年に歴史革命映画『ライハン』を制作します。➡Go to the site 

こちらはソ連支配下におけるカザフ女性の解放をモチーフにしています。
ロシア革命はカザフの人々を封建領主の抑圧から解放しました。しかし、人里離れた山間部では、まだまだ旧体制のバイ(地主)の権威がまだ残っていました。この映画の中でもそうした山間部のバイが貧しい未亡人の娘ライハンを借金の形として娶ります。

 

しかし、ライハンはそれを嫌い、バイの元から逃げ出します。彼女は更にロシア人共産主義者アンドレイの助けを借りて街に出て勉強をし、数年後、馬の飼育・繁殖の専門家として生まれ故郷の村落へ戻ってきます。
ところが男尊女卑の風習が残り、しかも自分達のやり方が正しいと頭から思い込んで譲らない村の牧夫たちはことごとくライハンの指導に逆らいます。

こうして彼女は大変な苦労をしながらも、新しい牧畜方法に従うよう村の男たちを説得します。そして徐々に彼女のやり方が浸透していくわけですが、そんな中、脱獄したバイが再び村に現れ、馬たちを怖がらせるために山の牧草に火をつけます。
驚いて逃げた馬の群れを飲まず食わずで3日3晩探していたライハンは疲労困憊していましたがようやく馬たちを見つけ出します。
しかし、そこで力尽きたライハンはバイに遭遇しあわや殺されるという危機一髪のところで、ライハンを探していた村の人達に救われるとういハッピーエンドで終わります。

第二次世界大戦中のカザフスタン映画

1941年9月12日、第二次世界大戦の真っ最中にアルマ・アタ映画撮影所が設立されました。
そして1941年11月15日に、アルマ・アタ映画撮影所は、戦火を逃れてカザフスタンに疎開してきたソ連の2大映画撮影所「モスフィルム」、「レンフィルム」と合併します。

こうして1944年までアルマ・アタで後世に遺る素晴らしい作品の数々を生んだ「中央合同撮影所」(ЦОКС)が誕生しました。


1941年~1944年まで、中央アジアやシベリアは著名な学者達や文化人も含む集団疎開の拠点となりました。
カザフスタンのアルマ・アタ市も例外ではありません。演劇界、オペラ歌手・バレエダンサーを始め、数多くの著名な文化人や学者が戦火を逃れてアルマ・アタに集結しました。中でも、「モスフィルム」と「レンフィルム」の2大撮影所がアルマ・アタに疎開した関係から、この時期のアルマ・アタ市は、まさに「ソ連映画の首都」的存在となったのです。
かの有名な「モンタージュ理論」を確立し世界の映画文化の発展に絶大な影響を与えた巨匠セルゲイ・エイゼンシュテイン監督も未完の三部作『イワン雷帝』(«Иван Грозный»)の第一部 (➡Go to the site) 及び第二部 (➡Go to the site) をアルマ・アタにある中央合同撮影所内で撮影しました。ちなみにこの『イワン雷帝』の制作には、ロシア・ソ連音楽を代表する作曲家の一人であるセルゲイ・プロコフィエフも参加しています。当時、作曲家プロコフィエフもまたエイゼンシュテインと同様アルマ・アタ市に疎開しており、この地で後にチャプリンも絶賛することになる名作『イワン雷帝』の映画音楽の制作を手掛けたのです。

アルマ・アタの映画撮影所では、戦時中に撮影された音楽コメディー映画の名作『豚飼い娘と羊飼い』«Свинарка и пастух» イワン・ピリエフ監督 (➡Go to the site) も完成しました。実際、1941年~1944年までの間、ソ連の全映画の80%以上がアルマ・アタ映画撮影所内で撮影・完成されたと言われています。


アルマ・アタ市に基盤を置く中央合同撮影所内で撮影された作品でカザフスタンをモチーフにした作品としては、カザフ最初の喜劇映画とされている『白いバラ』(エフィム・アロン監督)«Белая роза»、『草原の長老』«Батыры степей»(別称『巨人の歌』«Песнь о великане»  (➡Go to the site) そして、コンサート映像『ドンブラの音色に合わせて』«Под звуки домбр» (➡Go to the site) といった作品が挙げられます。『ドンブラの響きに合わせて』は、歌あり、踊りあり、カザフの人々やそこに疎開してきた人々との交流、そうした明るい娯楽的な要素に満ち溢れたものとなっており、当時のカザフスタンの雰囲気に触れるのに唯一無二の素晴らしい作品となっています。

1944年1月25日、アルマ・アタ映画撮影所は「アルマ・アタ文芸及びドキュメンタリー映画撮影所」に改名され、
1945年に「モスフィルム」と「レンフィルム」が終戦と同時に疎開地を離れてモスクワ、レニングラードに戻ったのに合わせて、
独立した制作活動を開始しました。この時から新たなカザフ映画の歴史の幕が上がります。

戦後のカザフ・ソビエト社会主義共和国の映画芸術

戦時中、モスクワやレニングラードの偉大な映画人達との接触により、カザフスタンでは優秀な映画人が育ち、その豊饒な土壌の上に独自の映画文化が発達していくことになります。その先陣を切ったのは、グリゴリー・ロシャル監督とエフィム・アロン監督が共同で撮影したムフタル・アウエゾフ(Мухтар Ауэзов)の小説『アバイ』を映画化した作品『アバイの歌』«Песни Абая»  (➡Go to the site)です。1945年に制作されたこの、カザフスタンの偉大なる国民詩人の生きざまを描いた作品は、戦後のカザフスタンで最初に制作された映画作品となりました。

1952年にはエフィム・ジガン監督の『ジャンブリ』«Джамбул» (➡Go to the site) (カザフ語)が公開されます。主役の詩人ジャンブリ・ジャバエフを演じたシャケン・アイマノフは、俳優としてだけではなく、後に映画監督としても有名になります。1954年にアイマノフが監督として撮影した『愛のポエム』を皮切りに、アルマ・アタ映画撮影所では定期的な文芸映画作品が制作されることになります。

1950年代の映画で最も重要な位置を占めているものは、アイマノフ監督が撮った『わたし達はここに住んでいる』«Мы здесь живём» 

(➡Go to the site)『親愛なるお医者さん』«Наш милый доктор» (➡Go to the site) アイマノフ監督とガッケリ監督の共作『草原の娘』«Дочь степей» (➡Go to the site) ベガーリン監督の『やがて彼の時が訪れる』«Его время придёт» (➡Go to the site) コメディー映画『地球への帰還』«Возвращение на землю» アロン監督の『ボタゴス』«Ботагоз» (➡Go to the site)ホジコフ監督の『セミレチヤ出身』«Мы из Семиречья» (➡Go to the site) ボゴリュボフ監督のコメディー映画『馬乗り名人』«Девушка-джигит» (➡Go to the site)といった作品が挙げられます。
 
ちなみにアイマノフ監督のコメディー映画『親愛なるお医者さん』は、カザフ共和国のみならずソ連全土で人気が出た作品で、監督兼主役を演じたシャケン・アイマノフはこの映画によって広大なソ連全土で知られた存在となります。多才なアイマノフは1959年、第1回モスクワ国際映画祭でモスクワを訪問していたアメリカ人女優エリザベス・テイラーとダンスを踊り、優勝しました。

また、舞台役者としても有名だったアイマノフの当たり役はシェークスピアの「オテロ」で、1964年、英国で開催されたシェークスピアの生誕400周年祭に招聘されたアイマノフは、オテロの独白を披露しました。これが本場英国の舞台においてカザフ語でシェークスピアが初めて披露された瞬間だったと言われています。

    
1960年1月9日、アルマ・アタ映画撮影所は「カザフフィルム」に改名されました。
更に1963年1月8日から9日にかけて、カザフスタン映画製作者連盟の第1回設立大会が開催され、同年5月28日にはカザフ共和国国務院映画撮影委員会「カザフ共和国ゴスキノ」が設立されました。

1960年代も50年代に引き続きアイマノフ監督、ベガーリン監督、そしてホジコフ監督がカザフスタン映画界を先導していきます。
映画で取り扱う主題も広がり、問題を描く手法も複雑化していきました。例えば、これまでと同じように革命をテーマとして扱っている作品でも、敵対する反革命的な人物(バイ=地主たち)を描く場合、これまでのように誇張された風刺画的な描き方ではなく、複雑で悲劇的な運命に翻弄される人物として、その葛藤も描かれるようになりました。

こうした斬新な「反英雄」としては『不穏な朝』«Тревожное утро»(アブドゥラ・カルサクバエフ監督)➡Go to the site 

のジュヌス・バイや、アウエゾフの小説が原作になっている『カラシ峠に響いた銃声』«Выстрел на перевале Караш»(キルギス人のB.シャムシエフ監督で「カザフフィルム」と「キルギスフィルム」の合作映画)➡Go to the site のジャラス・バイ等が挙げられます。

また、戦時中に活躍したカザフ人に焦点を当てた伝記的な要素が強い映画も次から次への制作されるようになります。
第二次大戦のソ連軍将校で「ソビエト連邦の英雄」の称号を持つバウリジャン・モムイシュリと、ドイツ軍の進撃をモスクワ近郊で止めて貴重な時間を稼いだカザフ人とキルギス人から構成された伝説的な「パンフィーロフ射撃部隊」を描いた
『背後にモスクワ在り』«За нами Москва»(1967年、マジット・ベガーリン監督)➡Go to the site
1943年10月に戦死したカリーニン戦線の第100番射撃部隊の機関銃手マンシューク・マメントワの戦場での1日を描いた
『マンシュークについての歌』«Песнь о Маншук»(1969年、M.ベガーリン監督)➡Go to the site

そして包囲されていたレニングラードを解放する戦いに参加し、1944年1月に戦場で若い命を散らした「ソビエト連邦の英雄」アリヤ・モルダグロワを描いた『スナイパーたち』«Снайперы»(1985年、ボロト・シャムシエフ監督)➡Go to the site
といった作品が挙げられます。
   
ちなみにマンシューク・マメントワは「ソビエト連邦の英雄」の称号を授与された最初のカザフ人女性となりました。
マメントワはベガーリン監督と同じ射撃部隊に所属していました。『マンシュークについての歌』の脚本は、当時カザフスタンに住み、働いていたロシアの著名な映画監督アンドレイ・コンチャロフスキーが手掛け、主人公のマンシューク役はコンチャロフスキーの当時の妻ナタリア・アリンバサロワ、マンシュークに恋心を抱く戦友のイェジョーフ役はコンチャロフスキーの弟で日本でもよく知られている俳優兼映画監督のニキータ・ミハルコフが演じています。尚、監督のベガーリンは戦闘中の負傷で右腕を失っています。

『マンシュークについての歌』は、1970年10月にモスクワで公開され、ソ連の映画祭や様々な組織の賞を受賞しました。

アイマノフ監督の遺作となった『首領の終焉』«Конец атамана»(1970年)は最も人気があった作品のひとつです。

第1話(➡Go to the site)

第2話 (➡Go to the site)

これは、架空の秘密警察のスパイであるカスィムハン・チャドヤロフの活躍を描いた作品で、『マンシュークについての歌』と同じく、脚本はコンチャロフスキーが手掛けています。

その他の、この時期の代表作には、カザフスタンのフォークロアを主題にした悲恋物語『キーズ・ジベック(絹の娘)』«Кыз-Жибек»(1970年、スルタン=アフメト・ホジコフ監督)

第1話 (➡Go to the site) 

第2話 (➡Go to the site)

気のいい12歳の少年コジャの冒険を描いた青少年映画『僕の名前はコジァ』«Меня зовут Кожа»(1963年、A・カルサクバエフ監督、T・ドゥイセバエフ監督共作)(➡Go to the site)

1918年、カザフスタンの辺境地帯で起きた事件と、秘密警察の小部隊を率いるトフタル・バイテノフの運命を描いた作品である『不穏な朝』«Тревожное утро»(1966年、A・カルサクバエフ監督)(➡Go to the site)

いずれもアイマノフ監督の『ある地区にて』«В одном районе»(1960年)(Go to the site)

『歌が呼んでいる』«Песня зовёт»(1961年)(➡Go to the site)

『交差点』«Перекрёсток»(1963年)(➡Go to the site) 

『アルダル・コセ~髭なし詐欺師』«Алдар-Косе / Безбородый обманщик»(1964年)
『父たちの大地』«Земля отцов»(1966年)
『チュベチェイカを被った天使』«Ангел в тюбетейке»(1968年)が挙げられます。

 

アイマノフ監督の作品は時代や場所に関係なく人が生きていく上で直面する普遍的な問題、誰もが覚える葛藤を、丁寧に、そして寄り添うような優しい視点で描いており、今日でも楽しく観られます。
町のために頑張ってきた町長さんが、時代の進歩の前で戸惑い、葛藤し、最初は進歩を受け入れようとしないのですが、やがて自分が「古い」ことを認めて進歩を受け入れる様子を描いた『ある地区にて』。
いつか自分のコルホーズ内に「劇団」を作りたいと夢みている美しく、働き者の若い娘アイグリを通して、農村にも文化や教育が浸透していく様子を描いた『歌が呼んでいる』。

日本の大女優司葉子さん似の女優ファリダ・シャリポワが演じる美人女医が「人命救助と法の遵守」どちらを優先させるべきかという問題提議を行う『交差点』。
カザフ版ねずみ小僧や怪盗ルパン的な存在のアルダル・コセが主人公の『アルダル・コセ~髭なし詐欺師』。

終戦から1年後、カザフの老人が、レニングラード近郊の村の墓地から兵士の息子の遺体を引き取り、故郷のカザフ草原に埋葬するために、孫とともに全国を旅する様子を描いた『父たちの大地』。
しかし、墓に辿り着くと、愛する息子・父が他の戦友たちとともにその地に葬られていることがわかります。老人と孫は、その悲しみを「人々の共通の悲しみ」と受けとめ、亡骸をそのままそこに残していくことを決めます。

60年代のアルマ・アタの街並み、若者たちの生活、沢山のヒット曲が出たサウンドトラックが楽しい音楽恋愛ほのぼのコメディー『チュベチェイカを被った天使』。この『チュベチェイカを被った天使』は、アイマノフ監督の親戚が息子のために花嫁探しを行っていた実話を題材にしています。
このようにアイマノフ監督が60年代に撮った作品の内容を列挙するだけでも、いかにその主題が多義に渡っているかが分かるでしょう。
アイマノフ監督はまさにカザフ映画界の伝説、「父」の異名にふさわしい存在です。

1967年には「カザフフィルム」では最初のアメニーション映画『なぜツバメの尾は角状になっているのか』«Почему у ласточки хвост рожками»(A.ハイダロフ監督)が制作されました。
これは悪の化身である3頭龍が若さの源である鮮血を入手して元気を取り戻すのを、人間のためにツバメが身をもって阻止するカザフスタンの民話に基づいたアニメーションです。
ハイダロフ監督の他、J.ダネノフ、G.キスタウオフ、A.アビルカシモフ、B.オマロフ、E.アブドラフマノフ、K.セイダポフといった監督たちが、カザフスタンのアニメーション映画史にその名を刻んでいます。

戦後のカザフ共和国では映画産業が著しく発展し、年間8本の長編映画と50本以上のドキュメンタリー映画や科学教育映画が制作されます。
1980年代にドキュメンタリー映画の分野では

アビシェフ監督の『開いた掌の謎』«Тайна раскрытой ладони» (➡Go to the site

マシャノフ監督の『永遠に触れて』«Прикосновение к вечности» (➡Go to the site)

スレーエワ監督の『カムシャット』«Камшат» (➡Go to the site)

ピスクノフ監督の『写真が必要』«Необходима фотография» (➡Go to the site)

アジモフ監督の『距離』«Интервал» (➡Go to the site)

タテンコ監督の『都市とスモッグ』«Город и смог» (➡Go to the site)

ゴノポリスキー監督の『噴水にて』«Сцены у фонтана» (➡Go to the site)

チュルキン監督の『自己弁護』 «Буду защищаться сам» (➡Go to the site)

ヴォヴニャンコ監督の『クムシャガル物語』 «Кумшагалская история» (➡Go to the site)

マフムトフ監督の『アラルに捧げる鎮魂歌』«Реквием по Аралу» (➡Go to the site)

アジモフ監督の『ジョクタウ(嘆き)~死せる海の記録』«Жоктау. Хроника мёртвого моря» (➡Go to the site)

ルイムジャノフ監督の『ポリゴン(核実験場)』«Полигон» (➡Go to the site

といった現実に対する新しい視点と理解を提示した名作が制作公開されました。

アビシェフ監督の『開いた掌の謎』は、マンギシュラク半島の芸術的価値の高い遺跡、壁画、地下モスク寺院シャクパック・アタ等について物語っています。


マシャノフ監督が撮影した20分のドキュメンタリー映像『永遠に触れて』は、シャガールが「彫刻界のゴッホ」と称した偉大なユダヤ系彫刻家イサーク・イトキンドについて描いています。

1871年に帝政ロシア領だったヴィルニュス(現リトアニア)で生まれたイトキンドはロシア・ソ連国内のみならず、ヨーロッパやアメリカでも知られ、高く評価された彫刻家となります。
イトキンドの作品は、特に、ソ連の文豪マキシム・ゴーリキーが好み、自ら率先して1918年にイトキンドの個展を開催したほどです。それ以降、モスクワ、レニングラードを始め、イトキンドの名声はどんどん広まっていきます。

ところが、1937年、エルミタージュ美術館でのプーシキン生誕100周年記念祭の後、イトキンドは突如として「日本のスパイ」として逮捕され、拷問を受けた後、シベリアの強制収容所、その後はカザフスタンに移送されます。
1944年までイトキンドはソ連国内外で「1938年に大厳粛」の犠牲となって亡くなったものと思われていました。ところがイトキンドは亡くなっておらず、アルマ・アタの街はずれでほとんど浮浪者のような生活を余儀なくされながら生き永らえており、樹の根を使って創造活動を続けていたのです。
「小人みたいな、仙人みたいな老人が作る彫刻が、本当に涙を流したりする」という子ども達の噂が噂を呼び、それに興味を抱いた芸術家たちがイトキンドを探し出した所から、彼が生きていることが発覚します。

しかし時代は依然としてスターリン時代で、敵国の「スパイ」の汚名を着せられた人物を、たとえその汚名が真実ではないということを誰もが分かっていても、公に庇護したりすることはできませんでした。
そのため、イトキンドは再度「忘れられる」のですが、1956年に「人民の敵」という汚名がようやく晴らされ、85歳のイトキンドはアルマ・アタの劇場で美術係として働き始めます。

その2年後、新しく入った若い美術係が地下のアトリエを覗いてそこにある素晴らしい作品の数々を見つけ、それによって再びイトキンドは「発見」されることになるのです。そこからカザフスタンの若い芸術家たちが中心になってイトキンドを庇護し、カザフの党政権も彼に住居、アトリエ、更には賞を授与してようやくイトキンドに再び日が当たるようになります。こうして彼は98歳で亡くなるまで、彫刻家として素晴らしい作品を生み続けました。
彫刻家イサーク・イトキンドの作品はアルマ・アタの美術館は勿論のこと、モスクワのプーシキン美術館やペテルブルクのロシア美術館、フランス、ドイツ、米国の美術館にもあります。
マシャノフ監督の『永遠に触れて』は、95歳のイトキンドの存在をソ連全土に知らしめるのに大きく貢献しています。

スレーエワ監督の『カムシャット』は、農機であるトラクター運転手で、ソビエト連邦上院議員の女性議員でもあるカムシャット・ダリムバエワのことに焦点を当てたドキュメンタリー映像となっています。
世界中から「平和運動家たち」がモスクワに集った1974年の「平和運動の大会」で、カザフ共和国を代表して壇上に上ったカムシャットは、「わたしの職業は最も<平和>な職業です。わたしはパンを育てています」と語っています。

その母としての顔、妻としての顔、そして働く女性としての顔、国を代表する者としての顔、カザフの典型的な女性の一人であるカムシャットを、女性監督ならではの細やかで温かい視点で描き出している作品です。


写真は人が生きてきた軌跡を表し、未来にその軌跡をつなぐものである、ということを伝えるピスクノフ監督の『写真が必要』は、写真館を舞台に、そこに訪れる老若男女、戦争から生還した軍人たちの撮影を通して、
写真が記録する一人ひとりの命の重さを伝えるものとなっています。

1982年に制作されたアジモフ監督の『距離』は、カザフスタンの羊飼いが抱えている深刻な問題を正面から扱っています。大規模畜産業と計画経済の導入の歪みです。
工場から運搬用に提供される車両に限りがあるため、羊飼い達は2000頭近い羊を放牧地から精肉工場まで歩いて連れていかなければなりません。山から下りくるのに12日間かかり、その間ほとんど食糧となる牧草や飲み水がない乾燥地帯を歩くことになります。そのため、1頭あたり5~6キロ近く体重が落ち、更に精肉工場に到着しても工場の方で屠殺が間に合わず、更に10日間以上待たされることになり、食べられる草が周りにないため、羊たちは更に体重を落とすという理不尽なことが起きています。
運搬車両で運ばれた羊たちも同様で、積み荷、積み下ろしに非常に時間がかかること、精肉工場についても屠殺が間に合わず数日間飲まず食わずで待たされた羊が体力を消耗しきってやせ衰え、中には死んでしまう羊もいることを、このドキュメンタリー映像は取り上げ、問題提議をしています。

こうした視点は、「ペレストロイカ」の到来が近いことを強く感じさせる内容となっています。

タテンコ監督の『都市とスモッグ』は、そのタイトルが如実に示しているように、三方を山で囲まれているアルマ・アタの街が抱える「スモッグ」という問題に正面から取り組んでいます。

また、1985年6月末にカスピ海東岸のテンギズ油田で起きた爆発事故と、自らの危険を顧みず200メートルの高さまで上がった燃え盛る油泉を鎮火するために闘った人々を取り上げたゴノポリスキー監督の『噴水にて』も、「ペレストロイカ」や「グラーズノシチ」の訪れが近いことを感じさせる作品となっています。
タイトルの「噴水」とは、石油を指しています。
   
1987年に制作されたチュルキン監督の『自己弁護』は大変ユニーク且つ斬新な主題を扱っています。
70年代、80年代に暗躍した詐欺師であり、且つ、アームレスリングの世界チャンピオン、ヨーロッパチャンピオンでもある「カザフスタン功労スポーツ選手」の称号を持つヴャチェスラフ・チワーニンに焦点を当てているのです。
数々の独白やインタビューから、チワーニンの独創的で、ある意味ストイックな性格がひしひしと伝わってきます。
彼の犯罪の手口は、「暴力を行わないで目的を成し遂げる」という方法に徹していました。

その一例として、1980年代、キルギスからのカシスの輸出が政府から厳しく禁止された時、チワーニンは警察の検問を逃れるために、希少で高価なベリーを棺に積んでカザフスタンに「密輸する」という独創的な方法を編み出しました。
あるいは、上司を「消して」欲しいと頼まれた際、その上司に外見が似ている部下に殺害された役を演じさせ、殺害を依頼した者が死体を確認したいと言ってきた時には空砲の拳銃を撃たせて依頼金を騙しとったという芸当まで見せています。

ドキュメンタリー映像が撮影された1987年にチワーニンは詐欺罪で刑を宣告され服役しますが、刑を終えた後、アームレスリングのソ連チャンピオンとなり、更に世界チャンピオン、ヨーロッパチャンピオンにもなります。

90年代は犯罪の世界からきっぱりと足を洗い、輸入車の販売や、レストランの経営といったビジネスを行い成功しますが、2001年にビジネスパートナーが依頼した暗殺者によって射殺されました。
チュルキン監督の『自己弁護』は、こうしたチワーニンに正面から向き合った貴重な記録映像となっています。

ヴォヴニャンコ監督の『クムシャガル物語』は、公式には「貧困層はいない」ということになっていたソビエト社会主義共和国連邦において、軌道機械駅(RMS=Road Machines Station)No.57のクムシャガル駅に放置されている電車車両の中で生活をすることを余儀無くされている人々にスポットを当てているドキュメンタリー映像です。

生活の最低限の基盤である「住居」という問題。住居や教育、医療が保証されているはずの「社会主義国家」の歪みがここではっきりと問題提議されています。

1988年に制作されたマフムトフ監督の『アラルに捧げる鎮魂歌』は、カザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖アラウ海が綿花栽培と米の栽培を優先させた自然改造計画によって干上がり、砂漠化してしまったことを描いているドキュメンタリーです。

YouTubeにこの映像をアップしているのはマフムトフ監督の息子さんで、次のように説明欄に記載しています。
「この映像は、父が参加したアラル88号探検隊をもとに作られました。綿花と米の生産を優先してアラル盆地系の水資源を搾取する非合理的な政策の結果を扱っているものとなっています。
また、そのことによって発生した生態系の破滅という社会的な問題を提起しています。ソ連時代、このドキュメンタリー映像は検閲の対象となり、一般公開されることはありませんでした。
また、原作者であり監督でもある父は、当局から批判を浴びることになりました。

しかし、この映像は当時、社会に大きな嵐を巻き起こし、ソ連当局が隠していた問題を広く議論することになったのです。」


1990年に制作されたアジモフ監督の『ジョクタウ(嘆き)~死せる海の記録』も、アラウ海の環境破壊問題を扱っています。
アジモフ監督は自身がアラウ海に面した町の出身で、「死にゆくアラウ海」の問題を他人事ではなく、自分自身の悲劇として受け止め、その慟哭にも近い想いを映像で万遍なく表現しています。
このドキュメンタリー映画は2010年にカザフスタンで開催された映画祭で賞を受賞し、また、2011年にはその続編『ジョクタウ~20年後』«Жоктау. 20 лет спустя»のプレゼンテーションが行われました。

そして、ルイムジャノフ監督の『ポリゴン(核実験場)』(1990年)は、セミパラチンスク核実験場の問題を扱っています。
セミパラチンスクの核実験場というのは1949年から1989年の40年間に456回使用された、ソ連のかつての主要な核実験場のことを指しています。面積が18,000km2の広大な草原地帯が核実験の場として使われてきました。これは、四国の面積にほぼ等しいと言われています。ソ連崩壊後の1991年8月29日に正式に閉鎖されました。


文芸映画作品のみならず、このように長らくタブー視されていた社会問題、環境破壊の問題に焦点が当てられた優れたドキュメンタリー映像が制作されたことは、カザフスタンの映画文化の層の厚さを証明するものとなっています。


 

ペレストロイカ時代のカザフスタン映画

1980年代後半から1991年のクーデター発生まで、ソビエト連邦ではゴルバチョフ書記長によって「ペレストロイカ」と呼ばれる政治体制の改革が始まります。ソビエト連邦を構成していた15の共和国それぞれにおいて改革の波が押し寄せ、民意の意識改革が顕著になります。そして、まさに「ソビエト連邦崩壊」に向けての歩みが始まるのですが、ペレストロイカは文化にも絶大な影響を与えました。カザフスタンの映画界も例外ではありません。

ペレストロイカはカザフスタン映画に数々の大きな実りをもたらしました。海外からの評価の高まり、フランスのナント国際映画祭、ドイツのフランクフルト映画祭、ポルトガルのリスボン映画祭のそれぞれで、カザフスタン映画の上映が行われます。まさに「カザフスタンの新しい波」という総称に相応しい潮流が起きるのが、1988~1990年にかけての時期です。

そうした中、1988年に制作&上映されたラシード・ヌグマノフ監督の『針』«Игла» (➡Go to the site) が、ペレストロイカ時代のカザフスタン映画のみならず、ソビエト連邦全体の黄金時代を代表する作品となります。この作品は青年「モロ」が、麻薬に溺れてしまったかつての彼女「ディナ」を麻薬から手を洗わせようと奮闘する中で、最終的に売人達から送り込まれた暗殺者によって刺される、というストーリーとなっています。この、悪に立ち向かう一匹狼の主役「モロ」を演じているのが、ソビエト連邦の音楽界に新風を巻き起こし、ソ連版「ロック」を作った伝説のロックバンド「キノ」のリードボーカルであり、ソ連版「ジェームス・ディーン」、ソ連版「ブルース・リー」とも言えるヴィクトル・ツォイです。父親がカザフスタン出身の朝鮮人エンジニア、母親がロシア人の教師だったヴィクトル・ツォイはレニングラードで生まれ、20歳で「キノ」というロックグループを結成しアンダーグラウンドで活動を開始しました。改革への想い、反逆の心、自由、そして異なるより良き明日を求める切実な叫びに満ちたその歌声は、海賊版でソビエト連邦全土に伝わり、ペレストロイカ時代を生きる若者たちの国歌的存在となります。

一斉を風靡し、ソビエト連邦時代の「社会現象」とまでになったヴィクトル・ツォイは、1990年8月15日、わずか28歳の若さで交通事故によって亡くなりますが、死後30年以上を経ている今日でもその人気は衰えることなく、ツォイの誕生日や命日にはペテルブルグやモスクワで今日の若者たちによる様々な追悼イベントが開催されています。

カザフスタン
画像はこちらからの転用となります。➡Go to the site

カザフフィルム社制作のこの『針』は、ソ連全土で大ヒットします。全ソ連で興行成績2位を記録した『針』の主演男優ヴィクトル・ツォイはソ連国内映画評論誌により1989年の主演男優賞の評価を受けることとなりました。
『針』は、作品全体に満ちた若者たちの悲哀感や、「キノ」の曲を始めとしたサウンドトラック、カリスマ性のあるヴィクトル・ツォイの魅力の他、環境破壊によって干上がったアラル海等、見どころ・考えどころ満載の作品となっています。

カザフスタン映画の黄金時代について語る際、『タッチ』や『人の群れの中の仔狼』、『恋する小魚』といった、海外の映画祭で入賞している作品についても言及しないわけにはいきません。


フランスのナント映画祭やイタリアのサンレモの映画祭で賞を受賞したアマンジョル・アイトゥアロフ監督の『タッチ』 «Прикосновение» (➡Go to the site) は、愛が持つ奇跡の力と、それが諸刃の矢となり悲劇ともなりうることを描いている悲劇です。


10歳の少年と仔狼の友情、人間社会と野生の自然が共存できないことを描いたタルガット・テメノフ監督の『人の群れの中の仔狼』 «Волчонок среди людей» (➡Go to the site) は、ドイツのフランクフルト映画祭やポルトガルのリスボン映画祭で入賞しています。


また、農村に住む若者が都会に出て遭遇する色々な出来事を描いたアバイ・カルプイコフ監督の『恋する小魚』«Влюблённая рыбка» (➡Go to the site) はニューヨークのリンカーンセンターでロードショーを迎えます。

カザフスタンを代表する現代詩人の一人であるオルジャス・スレイマノフの長編詩『バルコニー』が原作になっているカルィクベク・サリコフ監督の『バルコニー』«Балкон» ➡Go to the siteは、ペレストロイカ時代のカザフスタン映画の興隆を象徴する作品の一つと言えます。

ヴィクトル・ツォイ主演の『針』が旧ソ連の国々で圧倒的な知名度を誇るのに対して、同じくペレストロイカ時代を象徴する名作であるサリコフ監督の『バルコニー』は、カザフスタン国内においては上演後もテレビなどで繰り返し放映されているため大変良く知られ、愛されている作品となっていますが、カザフスタン国外ではそこまで認知度は高くありません。ドイツでの上演、モスクワの映画祭やトゥルクメニスタンで開催された中央アジア映画祭などで入賞しているものの、本来は海外でももっと知られ、高く評価されて然るべき素晴らしい作品だと思います。この作品は戦後、1950年代のアルマ・アタ市に生きる子供たち・青少年たちの日常を描いています。


旧ソ連の国々では「中庭文化」が発達していました。そこで遊ぶ「ガキ大将」を中心に形成される独自の社会があったわけですが、アルマ・アタ市の「20番中庭」が、この作品の舞台となっています。主人公は両親を亡くして姉と一緒に暮らしているアイダル・スルタノフ青年。正義感と強烈なリーダーシップ、抒情的な詩心を持ち合わせている青年です。友情、小さな「子分たち」、周りの大人たちとの関係を通して、スターリン時代を生きた世代の苦悩や、日常の中の喜び、自由への夢、正義を求める心、といったものが丁寧に描かれています。


また、素晴らしいプロット、子役を含む出演者たちの演技力もさることながら、この映画のサウンドトラックを手掛けているのがクラシック音楽界の巨匠たちで現代音楽を代表する作曲家であるソフィア・グバイドゥリナとアルフレッド・シュニトケであることも、特筆に値します。


『バルコニー』の他に、セリク・アプリモフ監督の『終駅』«Конечная остановка»(1989)やアルダク・アミルクーロフ監督の『オトラルの滅亡 - 征服者の影』«Гибель Отрара - Тень завоевателя» (1991) 第1部 (➡Go to the site) 第2部(➡Go to the site)、そして、ダレジャン・オミルバエフ監督の『カイラット』«Кайрат» (1991) (➡Go to the site) といった作品が注目を集めました。


1980年代後半、兵役を終えて故郷の村に戻った青年エルケンが、村での生活をこれまでとは別の視点から眺め、以前は気が付かなかったその「暗い」部分に気が付いて村での現実に幻滅をするというストーリーを描いたセリク・アプリモフ監督の『終駅』«Конечная остановка»(1989)は、それまでソ連映画に主流だったカザフの農村生活を豊饒の楽園と讃美するステレオタイプを覆した作品として重要視されています。


アルダク・アミルクーロフ監督の『オトラルの滅亡 - 征服者の影』«Гибель Отрара - Тень завоевателя» (1991)は、13世紀初頭のカザフ文化発祥の地である古代オトラルと、それを征服したチンギス汗を描いた歴史映画です。
チンギス汗軍に密かに潜入し、7年で奴隷から千人隊長に昇進し、戦いの技術のノウハウを取得した勇者ウンジュ。チンギス汗が中央アジアに大軍を送ることを決定したことを知ったウンジュは、危機が迫っていることをホレズム汗国に知らせに向かうという内容となっています。


ダレジャン・オミルバエフ監督の『カイラット』«Кайрат» (1991)は、大学に入るために大都市アルマ・アタにやってきた普通の若者の日常生活、その感性豊かな心を繊細なタッチで描いている作品です。フランス映画の巨匠ゴダール監督にも高く評価された作品となっています。
 

独立後のカザフスタン映画

ソビエト社会主義共和国連邦が1991年に崩壊し、カザフスタンが正式に独立を果たします。独立したカザフスタンでは、初の民間の映画撮影所が設立されるなどの新たな動きが出始めます。
また、国営の「カザフフィルム」も引き続きその活動を続け、中でも歴史を主題とした作品が数多く撮影されるようになります。


しかし、映画の配給システムが整備されておらず、法的な枠組みも曖昧で、ハイパーインフレーションが続く中で収益をあげていくことは難しく、独立系の民間撮影所のほとんどは閉鎖され、「カザフフィルム」も「映画祭と一握りの評論家たちのためだけに映画を制作している」と、批判されるようになります。また、困難な制作環境の中で新地を求めてロシアやアメリカにその活動の場を移した映画監督も数多くいました。
混沌とした過渡期を抜け、2010年を過ぎるとカザフスタンの映画芸術が新たな活性化を見せるようになります。


エミール・バイガジン監督の『調和のレッスン』(2013)(➡Go to the site)とアディルカン・イェルジャノフ監督の『家主たち』«Хозяева»(2014)は、芸術作品としてのカザフ映画の発展の指標となりました。
一方、映画の原点である娯楽としての作品も制作されるようになり、興行成績が鰻登りに上がるようになります。その代表的なものは、プロデューサーでもあり、TV司会者、俳優でも
あるヌルラン・コヤンバエフが主演男優兼プロデューサーを務めるコメディー映画『カザフ風ビジネススタイル』シリーズです。監督はアレン・ニヤズベコフ監督です。


2016年に公開された『カザフ風ビジネススタイル

«Бизнес по-казахски»(➡Go to the site) 

2017年の『アメリカでのカザフ風ビジネススタイル』«Бизнес по-казахски в Америке»、2019年の『アフリカでのカザフ風ビジネススタイル』«Бизнес по-казахски в Африке»

2019年の『韓国でのカザフ風ビジネススタイル』«Бизнес по-казахски в Корее»です。

いずれも大ブレイクしています。


また、『トルミス』«Томирис»(2019)(➡Go to the site)

といった興行成績歴代5位の歴史映画も制作され、カザフスタンの映画業界は新たな時代を迎えました。

参考:➡Go to the site

bottom of page